硫黄島からの手紙(一応完成)

 何故か締め切り後なのに忙しかった昨日今日(単なる人員不足)。そして来週1週間休みだから綺麗にしておかなくちゃというプレッシャー。途中「ムリかも・・・」と思ったけれど、「今日を逃したら行けない!!」と思って頑張りました。会社から約20分、ネイルサロンへ行くという友だちをダッシュで追い抜く・・・。
 星条旗のときはハンカチを忘れるという大失態をしたのですが*1、今日はハンカチと映画用のタオルを用意しました。最近毎日塗っているマスカラもやめて、いくら泣いてもいいように薄メイクで行って。着いたときは予告が始まっていましたので、パンフを買って、荷物を置いて、トイレに行って、汗を拭いて・・・と慌てて準備しました。準備万端!と思ったとき、映画が始まりました。
 二ノがどうのとか、普段ここにいらしてくださる皆様が期待されるような感想は書いていないと思いますが、思いつくままにつらつらと書きます。感想とか想いが次々出てくるので、そのうちのどれくらい書けるのか、自分でもわかりませんが。


 初めに2005年の硫黄島の風景が映し出されて、当時のままの砲台とか地下要塞を見たら、ぽろぽろと涙がこぼれてきました。星条旗のときと同じように、悲しいとか苦しいとか怖いとか、そういう感情があったわけではありません。ただ「本当に、本当に、本当なんだ」と思ったら、自然に涙が出てきました。今回、全編通して星条旗ほど泣きませんでしたが、替わりにときどき震えていました。
 見終わって思ったことは、クリント監督は日本のことを、日本人のことを、恐ろしいほどの時間と、情熱を持って調べたんだろうなということでした。そもそもタイトルが日本っぽいなぁって思っていたんです。栗林中将の手紙からヒントを得たからなんだと思いますが、日本において、手紙というのは特別なものだと思うんですよ。それは中古あたりの恋文(というか和歌)とか、四季折々で挨拶状を出す習慣からも伺えると思います。
 でも手紙がキーワードであるのは確かですが、話の基礎にあったのは、後退したり投降するくらいなら、潔く自決するのを美とする、いわゆる武士道だと思いました。擂鉢山を守れなかった部隊も、バロン西も、自決は許さないといった栗林中将も、最期は自決する。しつこいくらいに描かれる自決シーンに、大きな違和感は感じませんでした。そこにクリント監督の日本を知る情熱を感じました。
 どこで習ったのか忘れましたが、アメリカ人にとって、「切腹」という行為は到底理解できないものだそうです。切腹の作法は簡単に国語か日本史で習いましたが、あれ、一文字じゃなくて十文字に切るんですよね。それで出た内臓を自分でお腹に戻してから、介錯を求めるのだそうです。・・・まぁ、日本人の私からも正気の沙汰には思えませんが。
 捕虜になるくらいなら自決せよという日本人の感覚。「自分にはできない」と思ったけど、「理解できない」とは思いませんでした。そういう文学と歴史を習って育ったから、そういう時代だったんだと理解はできる。でもクリント監督には不可解なもののはずです。だからこそ興味深く、さらに生きて戦えといった栗林中将が興味深かったんだと思いました。二ノがクリント監督を冒険家だといっていたと思いますが、その通りだなぁって。
 栗林中将にはヒューマニズムも感じましたが、同時に合理的な戦術は冷酷でもありました。自決をさせないということは無駄死にをさせないということで、尊い命を自ら断つ必要はないというのと同時に一人たりとも戦力を失えないということでもあったはずです。本当はそんなふうに考えたくはなかったと思うんですけど。最後の反撃に出る前、その苦悩を西郷に語ったところに、戦争の矛盾や皮肉さを感じました。
 それは栗林中将の最期にも表現されていると思います。実際どのように亡くなったのか、誰も知らないんですよね?(西郷は架空の人物って設定だし) とすると、友情の印としてアメリカにもらった銃で死ぬというのはかなりドラマチックな演出でしたが、胸にずしっときました。戦争してはいけないと思っていたアメリカに向けた銃口を、自分にも向けるしかなかった。戦争がもたらした矛盾と皮肉がストレートに伝わってきます。
 渡辺謙さんは「若い人は西郷を通してこの映画を見るだろう」とおっしゃったそうですが(又聞き)、特に西郷の目を通して見たなぁとは思いませんでした。それぞれのシーンごとに、そこでクローズアップされる人の動きや表情や言葉を私自身が見て、感じました。戦争の怖さ、戦争への疑問。生きること、死ぬこと。愛するもの、愛してくれるもの。
 一番印象的だったのは最後の夕日です*2。西郷の微かな笑みと反対に、「あぁ残酷だなぁ」と思いました。日本における夕日。・・・が何を示すのかよくわかりませんが、歴史から言葉を借りると日本は「陽の出づる国」です。地球は丸いので、東とか西とかどうでもいいことかもしれませんが、日本が東洋の国といわれてたのは確かで。でも西郷が見たのは沈む陽だった。私にはそれが硫黄島陥落の象徴に思えました。
 西郷が話の中核にいるので、うっかり「西郷は生き延びたのかも。よかったよかった」と思ってしまいそうなシーンですが、硫黄島が落ちた後も無条件降伏までに5ヶ月くらいあります。捕虜の行く末がどんなものかもわかりません(実際清水の死を見てるし)。例え生き延びたとしても、戦場での出来事を忘れることはないでしょう。本土空襲が激しくなれば、妻子が無事という保証もない。あのオレンジは赤信号の一歩手前にしか思えませんでした。
 でもその上でも、西郷が見た夕日は単純に美しかったと思います。美しいものを美しいと思えること。この瞬間はまだ生きているんだという実感。それが常に生きることを選び、人が殺し合う中でも人間らしくあろうとした西郷の緊張が、解けた一瞬だったのだろうと思います。でも次の瞬間から、戦争をしている日常へ帰っていく。夕日が美しく、生きているからこその、哀しくて残酷なシーンでした。
 二ノが「どちらかだけでもいいし」といっていましたが、両方見た方がクリント監督が公平さに努めたのがわかるような気がします。人はどちらかが悪で、どちらかが正でもない。勝っても負けても、失うものは大きい。そして、アメリカ人であるクリント監督が日本の視点にたつという、(大変失礼ですが)ある種無謀なことに、ものすごい違和感というのは感じませんでした。栗林中将の最期や、夕日のシーンはとても日本的だと思いましたよ。日本らしく叙情的だなって。
 アメリカに作られたとか、日本で作れなかったのかと思うとか、プレミアからこっち、そういうコメントをいくつか聞きましたが、正直なところ、日本には作れない映画じゃないかと思いました。この先何年かかっても、作れないんじゃないかと。技術や金の問題ではなく、61年前の焼け野原から先進国の仲間入りをした今、戦争をしたという事実より、降伏したという事実が、すべてを過去のこととしてしまい込む一因になっている気がします。
 一時期、いじめなどを恐れてナイフを持ち歩く中高生が問題になりましたが、今まさに大人もそうしようとしているんじゃないのか。子どもに教えるべきなのは国を愛する心ではなく、全ての命を慈しみ尊ぶ心なんじゃないのか。もし私が結婚して子どもを産んで、そのときに地球上どこへ行っても平和だといえる状況ではなかったら、この二部作を見せたいと思いました。今が大人の手の中にあるとしたら、未来はいつだって子どもの手の中にあるはず。
 これまでの出稼ぎ仕事以上に一般の目で見たというか、途中から西郷が二ノだということを忘れてしまったくらいなので、二ノに限った感想というのはあまりありません。みんな二ノを演技派というけど、私自身はうまいのかどうなのかよくわからなかったんです。役者だなぁって思うより、アイドルだなぁって思っていたから。きっちり計算して、アイドルから逸脱せずに演技して、帰ってくるって思っていたから。でも今回はアイドルだなぁとは思いませんでした(なので役者としてうまいと思ったのかもしれない)。
 少々無謀な年齢設定も進むにつれて気にならなくなりました。宣伝では二ノと裕木さんを見て「弟と姉じゃ・・・?」って思ったんですが、映画では「西郷と花子だ」ってちゃんと夫婦に見えた。不思議なことに宣伝で見たシーンって、通した中で見ると全然印象が違うんですよね。西郷と花子のシーンもそうだし、清水が西郷に銃口を向けるシーンもそう。
 予告を見たとき、「初めて二ノを遠い人だと思うかもしれない」と書きましたが、そうは思いませんでした。・・・どこまでも図々しいですが。でもね、思ったんです。二ノにできて私にできないことはたくさんありますが、たぶん私にできて二ノにできないこともたくさんあるって。誰でもそれは同じ。みんな「わたしはただのナントカ」なんですよ。だから殺し合ったりしないで、お互いを尊重しなきゃいけないんです。優越感も、劣等感も、おいしいカステラの前ではつまらない、ちっぽけなことです。
 自分の気持ちをうまく書けたかわかりませんが、これで終わりにしておきます。本当に取り留めなくて申し訳ないですが・・・。しかしこんなに全身全霊で映画を見たのは初めてじゃないでしょうか。正直とても疲れました・・・。

*1:仕方なくティッシュを握り締めて鑑賞

*2:栗林中将が自害したのが昼間なので、あれは夕日ですよね?