縁とは不思議なもの

 みなとみらいには待ち合わせの約1時間前に着きました。電車が遅れると困るので早めに着くよう行ったのだけど、1時間では買い物をするにも遊園地で遊ぶにも時間は足りず*1、お茶をするにもお昼時で混雑しているしで、「微妙だなー」と思っていたら、ふらふらと水槽があった場所へと向かってました(病気?)。
 あえて更地になったところなんて見る必要もなく、楽しかった思い出だけ持っていればいいのに、無意識にそこへ向かったのは、私の変化があそこから始まったからなんだろうと思います。終わりをちゃんと見るという変化。だからこそ、わざわざ水槽の終わりを見に行こうとしたんじゃないのかなぁと思います。
 画像ありなので見たくない方はスルーしてくださいね〜。

 どんなことにも必ず終わりはあって。続いているように見えても、線が点の連なりのように、人生は始まりと終わりを繰り返しているんだろうと思います。その痛みに耐えてこそ、次のステップへ行けるんだろうなぁと、私はその終わりをずっと見ない振りしてきたのだろうなぁと、そう思う事柄が初めてライブへ行ったときにありました。
 ハッキリ書くのが恥ずかしくて抽象的に書いてるから訳わかんないけど(苦笑)。それまでも友だちに話を聞いてもらったり、激励されたりして、終わりを見なくちゃとは思っていたのですが、その期間があまりに長すぎて、きっかけがつかめずにいたんです。でも3月のライブで聴いた音楽が、MCで聞いた剛くんの言葉が、そのきっかけになりました。
 終わりとか痛みとかそういうもの込みで生きる幸せだということ、私の人生は私だけのためにあるんじゃないんだということ、今まで本当にいろんなものから逃げてきたということ。それでもなお、これまでの日々は決して無駄ではなかったよなぁという思い。なんかね、すごく衝撃的だったんですよね。
 ・・・まぁ、きっかけが訪れてからもうだうだといろいろあったし、クッションなしに終わりを見られたかっていうとそうじゃない気もするし、ダメなところもありましたが。でもとりあえず、無事に終わりは見ました*2。だからって人にわかるほど変わったかというとそうでもありませんが、自分ではときどきその変化を感じてます(笑)。
 人にわかるカタチで現れるとするならば、それは絶対に音だと思っていました。実際この5ヶ月、先輩以外の人にも音や演奏が変わったといわれて、「やっぱりそうなんだ」と思ってるんですが。私は今までずっと、意思を持って音に自分を出せずにいた。でも、わずかでも、それが出せるようになってきたと思います。
 だから、去年の3月に始まった変化の始まりは今度の演奏会で終わる気がしています。そしてまた何かが始まるんだろうと思っています。不思議なもので、今度の演奏会は横浜でやるんですよ。本社は東京にあるのに、何故わざわざ横浜で?と思ったのですが、縁というのはこういうものをいうんでしょうね。始まりと終わりが偶然にも同じ場所なんてさ(水槽の近くじゃないですけどね)。
 私はその終わりを、できれば自分が納得いく演奏で終えたいと思います。そうしたらきっと、一段階段を上れる。すごろくでいったらひとコマ進める。そう思います。うん、頑張る。
 ところでその水槽跡地。

 こんなところに特設会場を立てて、100公演もやってしまった剛さんは本当にすごいと思いました。4回しか行けなかったけど、楽しかったなぁ。私は再追加には1度も行かなかったのですが、仙台公演はどんな感じになるんでしょうね。

*1:っていうか、楽器持ってたらどっちもできん

*2:その後、思いがけない終わりまで見たりしましたけどね・・・