人の痛みに鈍感であることを、悔いながら生きたい

 金曜の新聞に記者さんが『父親たちの星条旗』を見た感想を書かれていました。どの新聞もだいたい1面の下に、小さなコラムみたいなものを載せているじゃないですか。時事的な内容で。新聞を読んでいたら見つけて、「おぉ!」と思って読んだのですけど。
 私ね、硫黄島2部作を何で今作ったのかなって思っていたんです。戦後キリがいい数字ってわけじゃないし、イラク問題とか中間選挙とかあるし。硫黄島の戦いについて今まで語られなかったのが不思議だといわれてるけど、だったら今じゃなくてもいいんじゃないかって。でもその記事を読んで、逆に今だから作ったのかって思いました。クリント監督は太平洋戦争を描くことで、今のアメリカのイラク派兵に、一石を投じたかったのかもしれない。
 その感想はいじめによって死に急ぐ子どもにも見て欲しいという内容で締めくくられていました。いじめと、子どもの自殺。どちらも深刻な問題ですよね。私も一人の人として、いつか子どもを産むかもしれない大人として女性として、ニュース番組や新聞を見て、最近ずーっと考えていました。
 以下はその考えていたことです。最近本当にずっとずっと考えていて、どこかに残しておきたいと思って書きました。個人的意見だからホントはここに書くべきじゃないかもしれないけど(考えていたわりには全然まとまってないし)、でもあえて書いてます。


 死ぬにはある種の勇気がいるんじゃないかと思います。誰も知らない場所へ、二度と戻ってはこられない場所へ、一人で出かけていくんだから。よくいじめに耐えられず自殺する子どもを弱いというコメンテーターがいますが、私は逆に強いと思ってしまいます。というより、人間は誰だってみんな強いと思うんですよね。そのベクトルが生に向かうか、死に向かうか、その差だと思う。
 いじめというのはセクハラと同じで、やった方がそう思わなくても、された方がそう思ったら成立するものです。ものさしできっちり測れるものではないからこそ、判断が難しいし、なくならないのだと思う。私も小学生の頃、毎日ブスだのデブだの散々いわれたし、授業中ずっと後ろから消しゴムのカスだのホチキスの芯を投げられたり、太るから食べるなとかいって給食取られたり、いじめといえばいじめのようなことをされていて、それなりに傷つきましたけど、相手に罪悪感なんて見えなかったですからね。逆に、私が何気なくいった言葉に深く傷ついた子がいるということを、別の子に教えてもらったこともあります。
 そもそもいじめという言葉の定義は何だろう? すべての人を傷つけずに生きていくことも、すべての人から傷つけられずに生きていくことも、絶対にできないと思います。人はみんな同じではない。誰一人として同じ人間はいない。違う形の石が河原にゴロゴロとたくさんあったら、ときにはぶつかったり、弾き飛ばされたり、下敷きになったり、上に乗っかってしまったりするように、人もそうなって当然じゃないでしょうか。
 どれをいじめといい、どれを人の間に起こる当然の摩擦といえばいいのか。堂々巡りで、初めのものさしで測れないから判断しようもなく、防ぐとかなくすということが困難なんだという文章に戻っちゃうんだけど。じゃぁ、世にいう「いじめ」をなくし、自殺する子どもをなくすには、どうすればいいんでしょう。・・・どうすればいいんだろうね。
 小学生の頃、私はあれをいじめだと思っていたのか、死にたいと思ったことがあったのか。咽元過ぎればで、それはよく覚えていないけれど、自分を辞めたいとは思ってました。私が私じゃなければいいのにって、中学である人に会うまではずっと思っていた。
 でも休まず学校には行きました。私の場合、そういうことをする人が限定されていて、仲良くしてくれる友だちもたくさんいたからだと思うし、親には何もいわなかったけど、私がどんな子であっても、両親に愛されなくなることはないってわかっていたから。だからみんなと同じように勉強したり遊んだりして、中学へ行って、「私は一人しかいないんだから、私は私でいなくちゃ」と教えてくれる人に会って、今に至ってるんですが。
 いじめという言葉ができてしまった以上、そしてものさしがない以上、完全になくなることはないように思います。でも自分の中にある勇気を生きることに向けられたら、少なくても自殺は防げる。そのために必要なことって何でしょうね。いろいろあると思うけど、私は(超月並みですが)やっぱり愛かなーって思います。誰の中にも周りにも愛はきっとある。
 でも、こんないい子なことを書いてますが、半分はこうも思ってるんです。亡くなった方を悪くいってるわけでは決してないのだけど、でも思っちゃうの。生きるということを自ら放棄するのなら、それを死んだ友だちにあげて欲しいって。つらい治療に耐えて、病気に勝って、ずっと生きるつもりだった友だちに、その命をあげて欲しいって。生きることは誰にでも与えられるものじゃないんだからって。
 世の中は愛に満ちてるとか、誰の中にも愛はあるとか、たまにそんなこと書いていましたけど。身近に愛はあると思う。ないと思っても、それは気付かないだけじゃないかと思う。そして自分の中にもきっとある。だから、生きることができるのなら、生き続けて欲しいと思います。自分の中にある勇気を、死ぬことではなくて生きることに向けて欲しい。誰かが愛してくれていることに気付いて欲しい。自分の愛する人にそれを伝えて欲しい。
 もちろん自分自身にもいってます。今でも私は誰かを傷つけずには生きていないと思います。いわゆる「いじめ」とはちょっと違うかもしれませんけど、でも私の言葉で、態度で、傷ついている人は絶対にいる。私だってときどき「あれ?」って痛みを感じることがあります。だけど私の周りにも、私の中にも、ちゃんと愛はあると思うよ。
 でもいじめをなくす努力もしなくちゃいけないですけど。それはもう、痛みに敏感になるしかないんだろうなぁって思います。それもものさしがないものだから難しいけれども。私は元々鈍感な方だし、痛みを恐れるあまり努めて鈍感になろうとしているところがあるから、人の痛みにも鈍感だと思っているのですが。
 二ノがプレミアの前日、ニッキでも書いてましたけど、硫黄島の予告が流れて笑いが起きたとき、私も「は?」って思ったんですよね。どうしたらここで笑えるの?って。それで二ノはすごく傷ついたんじゃないかなーって思いました。もしかしたらこの映画を見ても、何も感じてもらえないっていうか、何も考えてもらえないんじゃないかって、思ったんじゃないかなって。
 あのとき、ここで人を分けるとしたら、3つに分けられるって思ったんです。痛みに敏感な人、痛みに鈍感な人、痛みに鈍感なことを悔いながら生きる人。普段はこういう過激なことは思わないんですけど、でも「12,000人の兵士ってこれくらいだよなぁ」って横アリのお客さん見渡して、予告だけでも十分苦しい映像だったのに、笑える人がいるんだーって思っちゃって。
 私は鈍感だし、自分の痛みを和らげるために鈍感であろうとしてるし、そのせいで人の痛みにも鈍感なんだろうと思うけど、でも、せめて、痛みに鈍感なことを悔いながら生きる人でありたいって思いました。結局のところ言い訳でしかないんだけど。でも出来る限り、人の痛みを考えられるような人間にならなくちゃいけないって思う。
 ・・・やっぱり書いているうちに何をいっているのか、何がいいたいのか、わからなくなってきちゃうんだけど。まだまだいろいろ考えていくと思うんだけど。これくらいで。ただ何にせよ、原因を特定することと、結論を急ぐことはしない方がいいような気がする。生きるってやっぱり複雑なことだと思うから。